はじめに

広島市は、戦災復興に大きな役割を果たすとともに、市民に勇気と希望を与えた広島平和記都市建設法の精神をいしずえに、市民の英知と努力、国内外からの温かい援助などにより、中四国地方の中枢都市として目覚ましい発展を続けてきました。

 

1 広島市の地勢

広島市は、本州の南側、大阪市と福岡市を結んだほぼ中間に位置しています。

標高600メートルから1000メートルの山々が市の面積の三分の二近くを占め、平地部市街地を取り囲んでおり、面積905.25平方キロメートル、東西47.4キロメートル、南北35.3キロメートルの広さを有しています。

平地部の割合は約17パーセントで、太田川の河口にできたデルタを中心にデルタには6本の川が流れ、北は太田川沿い、西は佐伯区の八幡川沿い、東は安芸区の瀬野川沿いに広がっています。

その他の大部分は、比較的に急峻な大小の山が連なる林野でおおわれています。

一方、南部の広島湾には、似島や金輪島など6つの島々があります。

また、気候は、「瀬戸内気候区」に属しています。これは冬の季節風は中国山地に、夏の季節風は四国山地にさえぎられるという地理的条件によるものです。

降水量は南に豊後水道が開けている影響で、瀬戸内式気候区としてはやや多く、気温は1月約5度、8月約28度、年平均16.4度と比較的温暖です。

 

デルタと広島湾



 

 

2 広島市の歴史

広島の歴史は、今から約400年前の1589(天正17)年、当時「五ヶ村」と呼ばれていたこの地に毛利輝元(毛利元就の孫)が城をつくり、「廣島」と命名したことに始まります。同時に、領内各地から家臣を移住、職人や商人を招くなど、京都、大坂に倣い、城下町の建設を行いました。1591(天正9)年、城が完成し、輝元が入城し、葦の茂っていたこの地は一躍城下町となりました。

毛利輝元は関ヶ原の戦いに敗れ、代わり福島正則が入城しましたが、まもなく福島氏は、江戸幕府から広島城の無断修築の罪で、転封・改易され、1619(元和5)年、和歌山から浅野長晟が入城し、幕末まで浅野氏の居城となりました。

浅野氏入城後、広島は城下町としてさらに発展し、文政年間(1820年頃)には、城下の総人口は7万人前後となり、江戸、大坂、京都、名古屋、金沢に次ぐ大都市になりました。

明治維新を迎え、1889(明治22)年に市制が施行され、「広島市」が誕生しました。市制施行時、人口は約8万3千人でした。

この年に、千田県令(知事)の努力により、5カ年にも及んだ宇品港の築港工事が完成し、皆実新開以南宇品島へ至る青海原は広大な陸地になりました。

また、1894(明治27)年には、山陽鉄道が広島まで開通し、日清戦争の開戦にあたっては、広島~宇品間の軍用鉄道も完成し、こうした海陸交通の整備は、我が国海陸交通の要衝として、本市の繁栄を一層躍進させました。

さらに、同年9月、大本営が広島城内に移され、10月には臨時帝国議会も開かれるなど、広島は臨時首都の様相を呈してきました。

次いで、1904(明治37)年に起きた日露戦争では、その前年に開通した呉線により呉軍港との結び付きも深まっていたこともあり、本市は軍の主要基地となり、本市は中国地方における政治・経済・文教・交通の中心市となっていった。

そして、第2次世界大戦終結までは、市内電車など都市内のインフラ整備のほか、軍事施設の新設・拡充がさらに行われるとともに、全国から集められた多くの兵士が宇品港から海外へ派遣され、広島市は軍都としての道を歩んでいきました。このことが原子爆弾の投下の一因になっているとも考えられています。

 

3 都市計画の変遷

(1)“廣島”から

1589(天正17)年、毛利輝元が城下町の建設に着手以後、「廣島」は交通や経済流通の要衝として発展を続けました。

 

明治27年市街地図(広島市公文書館所蔵)



 

明治維新による変革で、洋風の生活様式や文化が採り入れられるとともに、橋や道路も整備され、市内を貫く国道沿いでは人々の往来や商業活動が活発化しました。上下水道の整備やガス・電灯が普及し、1912(大正元)年には市内電車が開通しました。レンガ造や鉄筋コンクリート造の建物が次々に建てられて都市景観を一変させました。

1923(大正12)年に、都市計画法が適用され、1925(大正14)年の都市計画区域をはじめとして、1927(昭和2)年には用途地域、1928(昭和3)年には道路、1941(昭和16)年には公園などが、それぞれ都市計画として定められるなど、本市は近代的な都市へと変貌していきました。

しかしながら、1945(昭和20)年8月6日午前8時15分、広島市の上空約600メートルで原子爆弾が炸裂し、本市の容貌を一変させました。爆心地では、鉄を溶かす約1500度よりさらに熱い、3000度から4000度の熱を発し、トリニトロトルエン火薬約15キロトン相当(1平方メートル当たり約35トン)の力が加わるほどの爆風が発生しました。

また、熱線・爆風・放射線や火災により、爆心地から2キロメートルの範囲にあった建物はほぼ全焼、その周辺の3キロメートルの範囲では半焼するなど、当時の市全域に被害が及びました。

燃失した面積は約13平方キロメートル、被害を受けた建物は約7万戸、年内までに亡くなった人の数は、約13万人から15万人と言われています。

市域内の人口は、1942(昭和17)年には、これまでの最高となる約42万人まで増えていましたが、原爆被災により約14万人と、一挙に三分の一に減少しました。

 

(2)“ヒロシマ”から

~広島平和記念都市建設法の施行に向けて~

生き残った人々は、新しい生活の場をつくるため、被爆直後から立ち上がりました。


原爆投下の目標にもなった相生橋の復旧工事に着手し、路面電車については、原爆投下の3日後に部分復旧し、年内には主要路線を復旧させました。


学校では、校舎が使用できない状況にあったことから、校庭の木陰に“むしろ”を敷きそこが教室となって授業(青空教室)が始まりました。


このような状況の中、都市としての復興を進めていくためには、都市づくりの方針となる設計図が必要となりました。その策定段階では、広島市や広島県などの行政機関のほか、各種団体や個人から多くの構想が提案され、1946年から1949年(昭和21年から昭和24年)にかけて、繰り返し検討されました。


その結果として、「広島復興都市計画」が都市計画として定められ、この計画に基づいて復興を始めたものの、人口の急減や建物の壊滅などに伴う税収の激減で、財政状況が極度に悪化したため、遅々と進みませんでした。


このため、国に対し国有地の譲与や復興資金の追加要請など、復興のための様々な要望活動を行いましたが、全国110余りの戦災都市を抱え、広島市だけを特別に財政的援助を与える余地はありませんでした。


このような要望活動のさなか考え出されたのが、ひとつの地方公共団体だけに適用される、憲法第95条による特別法(広島平和記念都市建設法)の制定でした。


この法律は、浜井信三(はまいしんぞう)広島市長、任都栗司(にとぐりつかさ)広島市議会議長、草案の起草者である寺光(てらみつ)忠(ただし)氏をはじめ、広島市、広島市議会、地元選出の国会議員など多くの関係者の尽力によって、国会に提出され、1949年(昭和24年)5月、衆参両院において満場一致で可決されました。


この法律を制定するためには、さらに住民投票で過半数の同意が必要となっており、このため、我が国で初めての住民投票が7月7日に行われました。(投票日が7月7日だったことから「七夕(たなばた)選挙」と呼ばれています。)


その結果は、投票率は65パーセント、賛成は投票者の9割を超え、市民の圧倒的多数の賛成を得て、「広島平和記念都市建設法」が、原爆投下のまさに4年後の1949年(昭和24年)8月6日、「広島平和記念都市建設法」が公布、施行されました。


この法律の施行により、広島市を「世界平和のシンボル」として建設するということが国家的事業として確立されました。このことは、一地方都市の復興が世界平和の原点として位置付けられている、歴史的に大きな意義をもつものとなりました。

 

(3)“ひろしま”へ

広島平和記念都市建設法の施行により、復興を進めていく過程の中で大きな役割を果たすとともに、広島市のめざす都市づくりの方向性が決まりました。

この法律の趣旨に基づき、1952年(昭和27年)3月に「広島平和記念都市建設計画」という新たな都市づくりの計画が、決定しました。このときから、これまでの復興都市計画はすべて、「広島平和記念都市建設計画」に塗り替えられ、それ以後、現在に至るまで、広島市の都市計画にはこの名称が冠せられることになりました。


この計画は5つの柱からなり、この5つの柱とは、


① 爆心地に近い中島地区に12.21ヘクタールの公園を計画し、これを記念施設「平和記念公園」として位置付ける

② 広島城跡を含む58.74ヘクタールを中央公園とし、その他市内に多数の公園を配置する


③ 市内を南北に流れる川の美しさを生かすため、河岸緑地を計画する。また、周辺の山々にも山地部緑地を計画する


④ 市の中央を東西に走る100メートル道路を軸とし、幹線道路を碁盤(ごばん)型に配置する


⑤ 市街地の大部分は、デルタ地帯に位置しているため、理想的な下水道を計画する


です。

 

広島平和記念都市建設計画



 

この建設計画に基づいて、今日の「ひろしま」は築き上げられ、また、これらが広島市の都市計画の根幹をなしています。現在、この建設計画は、1952(昭和27)年に決定された当時に比べ、都市計画区域は約6倍、下水道区域は約13倍、道路延長は約7倍と、規模は大きく変わっています。

中でも、広島市独自の都市施設「平和記念公園」と、復興のシンボル「平和大通り」については、恒久の平和を象徴する平和記念都市に相応しい施設ということができると思われます。

 

○「平和記念公園」


戦前、市の中心部に位置し、元安川と本川にはさまれた中島地区は、原爆が投下される前は繁華街として賑わっていましたが、爆心地に近かったことから街は一瞬にして壊滅し、多くの人々が亡くなった場所でした。亡くなった人々の霊を慰め、人類史上初めての原爆による被害の地を記念するために、1949年(昭和24年)に策定された「広島復興都市計画」では、初めは「中島公園」と言う名前で計画されていました。


同年、この一帯を対象に公園の設計コンペが実施され、公園のデザインを広く一般から募集しました。応募作品の中から、当時、東京大学の助教授であった建築家の丹下(たんげ)健三(けんぞう)氏のグループの作品が1等入選しました。この案は、原爆ドーム・アーチ・記念陳列館を一直線に並べて、平和大通り付近からアーチ越しに原爆ドームを見られるように工夫しています。


その後、広島平和記念都市建設法の制定により、恒久の平和を記念すべき施設や、平和記念都市としてふさわしい文化的施設を「記念施設」として設置することが可能になり、1952年(昭和27年)に建設計画を策定した時に、中島公園は「平和記念公園」と改名され、原爆ドームの一帯を含めて「記念施設」として計画されました。


現在はこの地で、毎年8月6日に平和記念式典を開催し、原爆犠牲者の霊を弔(とむら)い、世界平和を訴えつづけています。

 

平和大通りと平和記念公園

平和大通りと平和記念公園



 

○「平和大通り」


全長約4.8キロメートルのうち、約3.6キロメートルの道路幅が100メートルあることから、通称「100メートル道路」とも呼ばれています。


「平和大通り」という愛称は、市民から名前を募集し、平和記念公園の両側にかかる「平和大橋」「西平和大橋」といっしょに決めました。


2つの橋は、アメリカから届いた粉ミルクや小麦などの援助物資に対して、そのドル価格に見合う金額を国が円で積み立てた「対日援助見返資金」というお金を使って特別に国が建設しました。橋の欄干は世界的な彫刻家イサム・ノグチ氏によってデザインされました。


1957年から1958年(昭和32年から昭和33年)には、県内の市町村に樹木の提供を呼びかけたところ、おしみない協力が寄せられ、約6000本が植えられ(平和大通りは公園道路のようになり)ました。


また、全国の戦災都市でも副員100メートルの道路は24本計画されましたが、実現したのは名古屋市の2本と、広島市の1本だけでした。


現在では、毎年5月3日から5日までの3日間、平和記念公園とともに「ひろしまフラワーフェスティバル」のメイン会場となっています。


 

 

4 現在のまちづくり

  ~世界に誇れる『まち』~

世界で最初に被爆した広島は、世界のどこよりも、平和の心が育ち、町に平和が香る「国際平和のまち」にしていかなければなりません。また、「国際平和のまち」は、何よりも市民が「世界に誇れる『まち』」でもあります。

原子爆弾によって壊滅的な打撃を受けた本市は、広島平和記念都市建設法の恒久平和を象徴する都市を建設するという理念に基づいて、これまで、平和記念公園や平和大通り、河岸緑地、病院・教育施設等の整備などを進めてきました。

今や「平和の尊さ」を体現する「まち」となっています。このことにより、「国際平和のまち」、すなわち、「世界に誇れる『まち』」づくりに向けての基本的な条件は、ほぼ出来上がっています。

そのうえで、私たちは、この広島を、「活力にあふれにぎわいのあるまち」にし、生活のにおいがする、すなわち、人々の生き生きとした営みが感じられる「まち」にすることにより、そこに暮らす人々が平和への思いを共有することができるようにしたいと考えています。



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